東大の先生!超わかりやすくビジネスに効くアートを教えてください!
東京大学教授 三浦 俊彦 聞き手 郷 知貴
第一印象は、助かったー。
何が助けられたのかというと、モヤモヤしたりギスギスしたりしていた私の心。地球規模の大きな温かい手で拾い上げてもらえた感覚です。
自分の活動をうまく伝えられないことにモヤモヤしていました。いいと思うものが「本当に価値のあるものなのか」自信をなくしかけていました。
そんな気持ちを、本の中の言葉たちが、救い上げてくれました。
アートで今の自分を客観視できる
アート鑑賞は競い合う場ではない
「いまを生きている」という自覚を高めたり、自分を見つめ直す機会を持てるのがアート
知っているようで、知らなかった。というとまるで「少しは知っていた」ようですが、実際「こんなこと聞いたことない!」というレベルの知らない世界がそこにはありました。
今日こうしてこの本に出会えて、「アート」を語ることができる幸せを噛み締めたいと思います。
読むと得られること
アートって何?という大まかな知識が得られると同時に、ものの見方までも変えられそうな機会が得られます。
・デザインは人の生活に入り込み、実用的であるもの
・アートは人の生活とは切り離された非実用的なもの
・ローアート=マンガ、ハリウッド映画、歌謡曲 ではハイアートは?
・大衆文学はファンに喜んでもらえるかを考える
・純文学は「みんなと違うもの」「新しいものを作ってみよう」
・目に見えるものだけが造形芸術ではない。コンセプトもアートになる。
これらについて分かりやすく説明されていますので、ぜひ読んでみてください。もちろん、これ以外にもたくさん唸らされる内容が盛りだくさん。まだまだ知らない世界ってあるんだなぁと実感できるはずです。
とくに「心に残った」こと
3つくらいに抑えたいと思ったのですが、6つになりました。
私はアート畑で過ごすひとりのおばさんですが、本のタイトルにもあるようにビジネスに関わるすべての人、逆にビジネスやアートと全く関係のない学生や主婦の方々、毎日インスタで自分を表現しているすべての人々にも響く内容だと思います。
どんな人にもアートを楽しむ本能がある
アートって分かりにくい
何を「アート」と呼ぶのか 何が「アート」とされるのか とにかく近寄りがたい
こんなふうに思っている人には、かなり「効く」と思われます。
アートは「常識をブチ壊す工夫」です。「いまある概念を壊す工夫」ですよ。アートの役割は。
人それぞれの捉え方があり、私にとってのアートは「心を癒すもの」です。しかしこうして「常識をブチ壊す工夫」と言われれば、なるほど!と納得。
確かに自分が日常の中で関わるアートについては「こういうものだ」と自分なりに解釈をしていますが、現代アートや音楽などの他分野のこととなると、「近寄りがたい」「わかりにくい」というイメージを持っていたのです。
世界が広いのと同じくらい、アートの解釈も広い。
自分にとってのアートの役割をきちんと把握していたら、もっとアートを楽しめるのでしょうね。
AIやロボットがこれだけ進化しているうえに、5Gで超高速通信が可能になる社会。古い常識を壊して新しい常識を生み出そうという時代。そんな時に考え方を変えていこうという「大きな発想の転換」が必要だそうです。
「自分の知らない世界を知っていこう」という姿勢
そのようなマインドセット(気持ちや心の持ちよう)が重要なのですね。
私にとってのアートは「心を癒すもの」かもしれないけれど、ある人にとってのアートは「驚きと裏切り」という衝撃的なものかもしれません。アートが「美しいもの」である必要はないし、「汚れたもの」がアートとされることもあります。さらには冷蔵庫の音やトイレの便器までも。
解釈が人それぞれ。だからこそ「分かりにくい」のですね。人によって異なるのはもちろん、その時代、その時の流行り、同じ家族でも捉え方はそれぞれ。
分かりにくいけれど、アートにはそれに触れるたくさんの入り口がありますね。本で紹介されているのは、「アートは進化論で学ぶと超面白い!」ということ。
そもそも500万年の人類史のうち、都市文明なんてたかが5000年。人間の遺伝子が変わるには全然足りません。本能の部分はそうそう変わらないですよ。
こういう時代を超えた話になるとワクワクします。アートは古代から人類に欠かせないもの。遺伝子や本能に組み込まれ、小さく長く受け継がれ、そして最初からそこにあった大きな存在。
人生の本番としてのアート
仕事を効率よく終わらせる、お金を稼ぐ、子どもをいい学校に入れる。など目標に向かって最短で走ることが「善」で、それ以外の無駄なことは「悪」とみなす傾向があると先生はおっしゃっています。
確かに効率的とか生産性とか、時間を無駄にしないとか、そういう言葉をビジネス書ではよく見かけますし、子どもの学級通信の中でさえ見かけることがあります。
忙しい現代人こそたまに立ち止まって「私は今ここにいる。私はこういう経験をしている」と意識を自分に向けてあげることが大事だ。
仕事や育児や人付き合いで忙しい現代人が、「今私はここにいる」「今私は生きている」と意識する時間は日常の中にどれだけあるのでしょうか。
私が言葉にしたいと思っていたのはこのことでした。
結果だけを思い求めて仕事をしていたとき、私は生きている心地がしませんでした。誰かと話をしていても、頭の中はどこか違うところにある。将来に対する不安、過去の後悔。今目の前にあることを心から楽しんだりすることは、なかなか難しいことでした。
そして「絵を描いているとき」「じっくり絵を鑑賞しているとき」は何も考えずに没頭できたことを思い出したにもかかわらず、活動内容として人に伝えたい時にその感覚を言語化できず、モヤモヤしていたのです。
「今を生きている」感覚を取り戻すためにアートに触れる。
能率第一の人生は手段と目的の連鎖でゴールが見えない。
アートはそれ自体が目的。
アートに触れているときは、「人生の本番」なんですよ。
アートだからこそ「現実から分離された世界をじっくり味わえる」。そして「人生の本番」をどれだけ経験してきたかが人生の価値ではないか、という言葉に衝撃を受けて、しばらく次のページをめくれませんでした。
アートらしいとは?
アートらしい=現実から離れているもの
さまざまな分類がありますが、その一つに、以下のような分類方法があるそうです。
視覚芸術 美術(絵画、彫刻)など
言語芸術 文学、詩
聴覚芸術 音楽
目と耳だけで、他の「触覚芸術」や「嗅覚芸術」は存在しない。
なぜなら「熱い」とか「くさい」などは現実の感覚がすべてだからだそうです。ふーんなるほど。
より情報が足されていない「純粋なもの」ほど「アートらしい」。そこに分かりやすい情報や便利さが入り込むと、それは「デザイン」の領域になるのですね。
ピアノ曲とオペラなら、ピアノ曲がアートらしい。
なぜならオペラには歌と文学が合成されているから。
絵画の抽象画と具象画の場合。具体的なリンゴの絵よりは「分からない」「現実から離れている」抽象画の方が、情報を含まない分、「アートらしい」と言えるらしいです。
私は3歳から7歳くらいの子どもたちが対象のアートクラスを開講していますが、その時々で選んだ色の絵の具を使って、思い切った筆さばきで画面いっぱいに描かれた絵をたくさんみてきました。
それはそれはとても楽しそうで、何を描いているかを言語化はできなくても、その色や筆づかいや息づかいまでも感じられるような生き生きとした絵が、とても「アート的」と感じる時があります。
実際、フレームに入れて壁にかけると、現代アートの作品かなと思わせるほど。
「具体的に本物そっくりに描かれている絵」はその分かりやすさに価値があります。 そして「何が描かれているのかよく分からない絵」にはこれはなんだ?と見る側に問いかけてくる力強さを感じます。
この二つにはどちらが良いという優劣はないし、どちらに価値を置くかは見る人や見るタイミング、その目的によって異なります。ただ、情報が足されていない純粋なものほどアートらしいという感覚が伴うようです。
カラー写真とモノクロ写真なら、なぜか色の情報が足されていないモノクロの方がアートらしい。
ピカピカと派手な仏像よりも、色の塗られていない木や大理石、ブロンズ剥き出しの彫刻の方がアートらしい。
情報を足さずに質感だけで勝負する。つまり、訴える力の部分でその純粋さが測られるのですね。
しかしこれらも一つの視点であり、「これがアートらしい!」と思うにもそれぞれ人によって異なるのだと思います。
こういうものの見方(考え方)を子どもの時から持っていたら、どれだけ感性豊かに育っただろうと思います。どれだけの現代アートを興味を持つこともなく通り過ぎてきてしまったのだろう。観る機会はいくらでもあったのに、ああ、もったいない。
哲学も一緒
アートは太鼓の昔からあり、その発展の過程で「これは役に立つ!」と思われた流派に「デザイン」「建築」「まんが」という具体的な名前が付けられ、アートから分離して行った。
つまりアートはその残骸である。
実は哲学もまったく一緒らしい!
昔は数学も物理学も心理学も天文学もみな哲学だった。それが明確な知識や答えが得られた途端に「学問」として独立して名前がついた。まだ名前がつけられない「ナゾなもの」が哲学として残った。
このことを知って物凄い衝撃を受けました。
たかだか47年の人生ですが、これまで哲学とアートに助けられてきたと思っています。
哲学とアートは、両方ともわけのわからないものとして残ったものだった。
それぞれに関連性があるとは全く思っていなかったのです。なんだか心が苦しい時に哲学の本を読むと、自分の悩みなんてちっぽけに見えて、心のサイズがほんの少し大きくなるような感覚がありました。「ああ、なんだか楽」な気持ちになることに30代の頃気づきました。
そして最近になって、それこそ長く関わってきた「絵を描く」行為そのものが私にとって「ああ、なんだか楽」であり、自分を癒すものだったと気づきました。それぞれが(現段階では)「よく分からないもの」として残ったという共通点があるとは。
感覚的に生きていることに「楽さ」を感じるのは私だけではないと思いますが、今回の本で明らかになった「アート」と「哲学」の共通点。なぜか誇らしいような、嬉しい気持ちで心がポカポカ温まったのでした。変わってるね、って言われて嬉しいのと同じ感覚かな?
アート鑑賞のすすめ
私は活動の中で「対話型アート鑑賞」というものに挑戦しています。アートを見ながらグループで対話することによって観察力や論理的思考力を高められるというものですが、何度かやっているうちに気づいたことがあります。
当然のことですが、興味のない人にその良さを伝えることは本当に難しく、その鑑賞の時間自体がお互いにとってとても苦しいです。しかし、もう一つ苦しくなる理由がありました。
現実と切り離されていない
これでした。だから現実世界の日常の流れのまま突然「鑑賞」が始まれば、多少興味がある人だって、なかなか入り込むのは難しいのですよね。
アートと向き合った時の2種類の反応
1 作品がつくる世界にのめり込んで自分をなくす
2 作品を見ている自分の感受性を確かめながら芸術作品に対峙する
いずれの場合も「現実からの切り離し」が起こっています。
美術館など「アートを鑑賞すること」そのものが目的となっている空間に身を置けば、非日常性は保たれますが、さっきまでお皿を洗っていて、時間になったからパソコン開いてZoomに入り・・・すぐに絵を見せられても、それはもう頭の中は「あれ、食洗機のボタン押したかな」とか日常どっぷりのままですよね。
対話型アート鑑賞は、他人の意見と自分の考えを比べながら鑑賞ができるので、上記で言えば2の方だと思います。
アート体験は、鑑賞力を競い合うためにあるものではなく、「自分を客観視できる」ことにあるのですから、その効能を最大限に受け取るためにも、いかに現実から切り離した環境に持っていくか、が大切であることを学びました。
アート創作の最大の魅力
アート創作の最大の魅力は、いかようにでも自分の情感を表現できる圧倒的に自由なところ。
現代はコストをかけなくても、誰でも自己表現ができる時代ですね。インスタやブログ、電子書籍、TikTokなど、一昔前ではとても考えられなかったプラットフォームがたくさん生み出されています。
まさに、誰もがアーティストになる時代ですね。
子供の時は自由で皆がアーティストだった
とよく言われますが、ただ絵を描けるだけがアーティストではないとしたら、もう大人になった私たちもあらゆるツールを使って自己表現ができる、正真正銘のアーティストですね。
とはいえ、アメリカの小説家アーネスト・ヘミングウェイは、「制約は創造性を高める」という有名な言葉を残しているそうで、自由ばかりがアートではないようです。
特に今は情報時代で、コンピューターが便利になって、人間一人でできることが本当に増えた。そんな時代だからこそ、クリエイティブな活動をしたい人は「あえてメディアを制限する」ということを再認識して創作活動をすることが重要かもしれません。
制約こそ、創造性を高める最強の道具
小説を書くなら「言葉だけ」で勝負
上記の「アートらしさ」のところでも書きましたが、小説に挿絵がない理由は、分かりやすくなると、アートとしてつまらなくなるからだそうです。もちろん全ての小説家がそこを狙っている訳ではないと思いますが。
読みやすさや分かりやすさが価値である実用書などは、イラストがあった方がいい。アートの純度低めでOK。ただ、小説には、挿絵を入れた瞬間、アートとしての価値が下がるのだそうです。
私が取り組んでいるアートジャーナルは何をしても自由。その自由の中には、どんな技法で作っても、どんな素材を使っても自由という意味があります。
アート的な結果を求めたい時は、一つのメディアに制限をして挑戦してみる。そして自分の内面を探求する目的であれば、一つの素材に制限したりあるいはさまざまな素材を組み合わせたり、それこそ「自由」で良いのだと思います。
まとめ
上記の「アートらしいとは?」のところで、抽象的な方がアートとしての価値が高いという話がありましたが、それ自体は「現代」における価値観であることも本に書かれています。
つまり、昔は写実的で本物そっくり!な絵を描ける画家が「すごい!」ともてはやされていたけれど、現代ではカメラの登場後、いわゆる「上手い絵」を描けるだけでは「表面的に人の目を惹きつけるだけのつまらない絵」と見られてしまう。
すべてはその時代の「ものの見方(価値観)」によるのですね。(本の中ではパラダイム・シフトとして説明されています)
宗教画から離脱した時代には、さまざまな表現方法が取り入れられるようになり、アートの幅が広がったという意味で大きな転換期になりました。本文中の「アートって神様と無関係でもよくね?」に笑ってしまいました。
私は木炭や鉛筆で実物そっくりに描く「石膏像のデッサン」が大好きでした。大学受験前、それはもう、見なくても描けるほど形を覚えて描き込み、「そっくりに」描くことに没頭していました。
しかし、それから数年後、「上手い絵」なんて誰でも描けるという思いが強くなり、いっさい描かなくなりました。というよりも、描けなくなりました。
子どもたちは次々と自由な思いで手を動かして絵を描きます。それが心からうらやましいと思っていたのです。
そうして始めたのが「アートジャーナル」です。上手くても上手くなくても、アイデアが個性的でも個性的でなくても、完璧などない。比較しなくていい。競わなくていい。完璧主義から脱出しなければ。というマインドにたどり着くまで、ずいぶんと時間がかかりました。
これについてはまた別の機会にお話しするとして、この本のおかげで、ようやく一歩を踏み出せるような気がします。
全体を俯瞰して細部を描きこむデッサンの良さにも、あらためて最近気づくことができたのも、「アート」というものの見方を通して、自分の価値観の移り変わりを客観視できたからだと思います。
アートで今の自分を客観視できる
アート鑑賞は競い合う場ではない
「今を生きている」という自覚を高めたり、自分を見つめ直す機会を持てるのがアート
そういう言葉に変換してもらえて、それらを心の栄養に、これからも地道に活動していきたいとあらためて思うことができました。ありがとうございました!
私の文章はいつもかたくなってしまいますが、実際の本はユーモアたっぷり楽しく読みやすい対話形式で書かれています。
ぜひ。
一番の